せん妄

パソコンの前に長時間座っていられなくて、寝床でホルダーに挟んだタブレットを見上げてもっぱらユーチューブでウクライナの状況を確認していました。戦車の砲台が吹き飛ぶシーンを見る度、あ~誰かの子供が3人ぐらい死んだ・・あ~又誰かの孫が4人ぐらい死んだ・・と無力感に打ちひしがれております。丑三つ時でなく日中に藁人形を打ち付けた73才だかの先輩が逮捕されてしまったけれど、「んだ!その手があった!ロシアの午前3時にあたる時間に日本の有志5万人ぐらいで一斉に祈念したら彼の脳血管の言語と右半身ぐらいの中枢に近い所がプッチンと切れたり詰まったりしないもんだか・・・」と思ったがアサハカでしかないか・・。立ち位置が近いと感じる「とっさんTV」や「上念司チャンネル」から目が離せない。


時にせっかくパソコンの前に座ったついでに、手術前後の事を忘れないうちに書いてしまいます。
「全身麻酔で手術をすると殆どの人が「せん妄」という状態を経験します。」と手術前に断言されましたが、内心自分には関係無いけど・・と思って聞いていました。が、今考えても釈然としない経験をしました。
手術の夜と翌日の夜はナースセンターの隣、観察室で過ごしました。一人では寝返りも打てない状態で天井を見上げながら「これが癌とか脳梗塞とか本当に生命とかに関わった手術だったら切実だったべな~取りあえずそういう時の予行演習だったと思えばラッキーかも・・」と観念していました。が、こういう・何にもできない時・時間はゆっくり進み・ただ寝てればよい時・眠れないものだな~・・と痛感しました。
4人部屋の通路側のベットに移動(つまり帰還)できました。最初なじめなかったコルセットを装着し、尿管も外れると歩行補助機(買い物カートみたいなの)で動けるようになりました。看護師さんにも「良かったね~」と言ってもらえていたのですが、夕方になると足元を冷えた風が流れているのを感じました。すると少しずつ熱が上がってきました。8時過ぎ39度になり10時過ぎ、何と39・8度を計測しました。看護師さんが解熱剤持ってきますか?・・と聞きましたが私は「イエ・大丈夫です・・」実感がわきませんでした。平熱が低い方の自分は普段37・5度を超した辺りでフ~フ~言うのですが全然平気でした。その夜、天井のダイキンのエアコンの吸込みユニットがゴーゴーと凄い音を立てるので辟易しました。普通うるさいのは送風側で吸い込み口はこんなにうるさい訳は無いのに、やっぱり病室仕様のはセルフクリーン機能とか付いてて夜中に動作するのかな・・(一応業界の人間なのだ自分)それにしてもうるさい!!翌日同部屋向えのベットのSさんに昨夜は随分やかましかったですよね~~と言いましたら、キョトンとしていました。マ~熟睡してたら気付かないか・・と思いました。
朝7時頃どこからか仏壇の鐘を鳴らす音が聞こえたような気がしました。「エッ?病室に位牌とか遺影とか持参する??」と思いましたが、通路を挟んだ迎え側の病室は個室の並びでしたし、ご高齢の方で伴侶の供養は欠かさないというお金持ちはいるべな・・。と思いました。夕方6時過ぎ、又、鐘の音を聞いたような気がしました。その辺りから足元に冷たい風を感じました。熱が上がってきました。冷たい風は自分には、もしかしてうっすらと白く見えるような気もしました。熱は40度に達しました。普通だったら救急車~~と思う所ですがここは病院でしたし、特に異常ありませんでした。その夜は足元のSさんの右隣に大いびきをかく人が寝ていました。4人部屋に二人しかいないハズが3人いました。もしかして緊急的に招集された偉い人が休憩しているのかな?とか思いましたが、どこに行ってもこの野性的な低音のいびきは同室の人の安眠を妨げるべな・・。でも向かいのSさんなのか?・・と耳を澄ましましたが足元のSさんの寝息と違う・あきらかに右斜め向かえのベット(カーテンで仕切られている)からンゴ~ンゴ~と聞こえていました。
手術から4日目・土曜日の午後、病室にはたまたま自分一人が残されました。牧歌的な温かい午後でした。屋外、左下の方から(病室は3階でした。)民謡の先生が気持ちよさそうに発声・歌いだすのを聞きました。自分には無理な下腹から喉先まで一種の管楽器のようになった民謡の歌い手さんに「心地い~~」と耳を傾けていたら、今度は右下の方からMISIAとアムロちゃんとJJちゃんを混ぜて最強にしたような女の子が歌い始めました。レッスンのようにサビの部分を何度も繰り返しトライし、完成度が高まり実に心地よいではありませんか・・「こんな歌姫がこの場所で練習している・・スゴイ!だが・・フェイスは?ナンボうまくてもフェイスも若干の要因が・・&CDとか出してたら絶対買うし・・等と思い窓際に近づいて下を見渡しました・・。民謡道場とかカラオケ教室とか、そんな所はありませんでした。


火曜日・術後最初のレントゲン・CT撮影でしたが、その早朝3時頃・・この時間にトイレに行きたいとナースコールをするのを憚った自分は一人でトイレに行くトライをしました。右足がベットと枠パイプの間にかかとまで滑り込んでしまい抜けなくなりました。抜こうと力を入れると手術をした部分が悲鳴を上げました。ちょっとマズイではないか・・と体を反転する事にしました。ら・・・上半身がベットから落ちる寸前まで滑ってしまいました。つまり脊柱管を手術したばかりの私がタオルを絞るような体型で身動き不能になったのです。あきらめめた私は必死にコールスイッチを探り押しました。「どうしました~」「すみません・動けなくなりました・」看護師さんが廊下をパタパタパタパタ!!と夜中の3時に全力疾走してくるのを聞きながら「あ・マズイ・・やっちまった・・」と思いました。その日、予告も無く病室をナースセンターの近くに移動させられました。(病棟の北東の隅から南西の端へ移動~~)
すると同じ病棟の中なのに体感温度が10度違う・・と言ってよい程病室がポカポカと温かいのを実感しました。同室だったSさんが一時間に一回懐かしがって訪ねてくるのですが「あれ??顔色がまるで違うよね・・」と言われました。そして自分も退院間際に知るのですが、最初に入った病室の通路向かえの個室はこの病院のご遺体の一時安置室でした。



リハビリの担当のTさんに「この地区の小学校では鼓笛隊なんぞありません・・御神楽ならあっけど・・なんて言ってるけどゴスペルの練習している人達いるんだね~」とか言って「えっ?」と返されたけど、すぐ「ですよね~」とフォローされたりして自分はがっつり「せん妄」してきました。

2月24日退院の朝、侵攻がハジマッタ・

ハーケンクロイツ(逆卍)がZに換り、侵略地(ゲットー)で市民を蹂躙し、自国民はハイル・プーチンと熱狂している・・。


5月9日はナチスに勝った日でなくナチズムを継承した日になる・としか思えない。


『僕の村は戦場だった』のイワン君・・又・戦争が始まってしまった・・。

退院できました。

1月25日手術・2月24日退院して参りました。自力で歩行できるようになったのが2月9日ぐらいで、他の同じような手術後の患者さんより随分と時間が掛かったようで、看護スタッフの皆様にご心配を頂きました。退院してきたら、階段を杖無しで上り降りする私を見て奥さんもびっくり・・なのですが、実は未だ、長く座っていられません。コルセットから右太ももに付け足してあるスパイカーという、股関節の角度を制限する治具のせいか3月16日の今現在で30分位が限界です。痛くなるのでなく、重苦しさを感じる・・という程度なのですが、初めの頃は食事も立ち食いでした。
正直に言うと「痛みが消えるのなら何でもいい・・」と、藁にすがる思いで手術に臨んだので、具体的にどんな手術を受けたのか知ろうとも思いませんでしたが、夜に背中の痛みで目覚める・・朝、目覚めると腰のあたりがジンジンと重苦しく・・背中にロキソニンテープを二枚張りし、その上をコルセットで固め甲殻類に変身して一日を耐える・・という、ここ10年の日常が嘘のように必要無くなってから・・「俺ってどんな手術を受けたんだ??」と興味を持ちました。で、パソコン画面を写させてもらいました。(多分、人様にお見せする物でない部分は画面下に隠れていると思います。)

           

奥さんと出会った以外、よいめぐり合わせに会った事はあまり無いのですが、今回は偶然県内屈指の名医の執刀を受け手術そのものは成功しました。後は落ち着く所に落ち着けば良いのでしょうが、どうかな~??という状況です。


退院してきたら、全日食キムラが閉店していて、市内で一番美味しくて安い弁当とチャーハンが買えなくなり、週末、ワインのデカンタ500とつまみで1000円でほろ酔いしていたサイゼリアも撤退していました。年寄はそういう周辺環境の変化に弱い事を実感しています。
ところが、もっとすんごい事が退院の日から始まりました。ロのプーチン大魔王がシェフチェンコとグジーさんの母国を侵略しました。オリンピックの開会式で、そこまで欲張って委員会周委員長から「パラリンピックが終わったらオラやるよ・・」と台湾進攻について告られたので、あせって判断を誤った・・と私は邪推しています。ロシアの戦車群は地球上で無敵のイメージがあったのと、2014年のウクライナのイメージが残っていたので、失礼ながら3日ぐらいで決着がつき、腰の引いたアンメアリカでは絶望しか見えない・・と思っていました。
ここで年寄の出番です。親ロシアを装い降参して壁となり、女性・子供の盾となり血気盛んな若者を鎮め「お家再興」の機会をうかがう・・。「お~とこの子~なら、負~けないぞ~、あ~~信州~天馬狭~」


ところが、ウクライナ強い!!ウクライナがんばる!!そうか・・一度取られれば竹島の如くの小島も北方4島も何十年経っても戻って来ない。2000年かけて復国したイスラエルは命に代えても他国の侵略を許す訳が無いのだ。平和ボケであった・・。


中学生が学級委員会で口喧嘩をしているようなテレビの討論は聞きたくないが、ニュースから目が離せない・。