おくのほそ道 人跡稀に雉兎蒭堯の往かう道

4月はおくのほそ道にハマってました。以下 長文です。


奥の細道で芭蕉と曾良は、松島の次に石巻を訪れます。その道筋は現在の国道45号線と近似しているものだと思っていましたが実は違いました。
芭蕉一行は上下堤から小野に渡り、直進して白山神社・大塩小の前を通り・赤井小・蛇田小・石巻工業高校前を通って石巻(新田町)に到着していました。
松島と平泉は奥の細道で絶賛されたが故に、現在でも一年中観光客で賑わっています。一方、せっかく名著に名を連ねた東松島市と石巻市は、芭蕉翁により事実と異なる脚色を受けて世界中に広まり、印象がよくありませんでした。ですが、以下でご案内する本当の道筋を辿って頂けば、そういうイメージを逆転する魅力を今でも充分に残している事に気付きます。


 塩釜から船で松島に到着した芭蕉一行は例によって枕詞の名所を精力的に取材しました。淡々と実務を書き留める事の多い曾良日記も珍しく縁起から情景、感激を細かく書き残しました。加えてその夜、「心にかかりていた月」が幽玄静謐なる松島湾を照らしました。
「絶景にむかう時はうばわれて叶不。句が無くても、それも大事也」と芭蕉は自ら句を詠まず「袋を解きてこよいの友とす。」とする事にしました。袋を解きてこよいの友とす・・とは、目の前の絶景を詠んだ俳句、漢詩などを紐解き、自らの創作の労から一夜離れ、ただ鑑賞にひたった・・という意味であろうと思っています。(この日もし夕日に染まる松島も姿を現していたなら更に衝撃を与えていたでしょう。)
つまり、結果、翌朝はかなり睡眠不足で、尚且つ、もしかして二日酔で出発しました。時は陽暦6月26日、快晴、現在でいう「熱中症警戒日」でした。


 一行はもちろん行き当たりばったりで旅していません。道中の大まかな旅程は「ヒレカミ」という今でいう付箋帳、メモ帳のような形で準備していました。そのヒレカミによると、やはり松島の後は古川経由で平泉を訪問する予定になっていました。ですが、当日、松島を出発する時点で一行が実際に目指していたのは何処か・・というと、登米だと思います。
松島から(あてら坂にて)大松沢・三本木方向に直進せずに上下堤方向に向かった時点で、古川を目指していないと考えた方が正解です。そしてもう一つこの時点で感じ取れるのが、経由はどこでもよいから早く平泉に到着したいという思いです。古川より登米の方が翌々日に早く平泉に到着でき、滞在する時間を多く確保できます。そしてこの時点では、もっと遠くなる石巻は予定になかったと思います。


 元禄2年旧暦5月11日(陽暦6月26日)登米を目指して松島を出発した芭蕉一行が、上下堤から小野に渡り大塩小学校前を通過する、いわゆる「人跡稀に雉兎蒭堯の往かふ道」を過ぎた時にアクシデントが発生しました。
芭蕉翁はそもそも15歳までは主君に仕え武士として戦の修羅場を跋扈する覚悟と準備ができていた伊賀者ですが、曾良は風流を嗜む江戸の町民でした。体力差が歴然としていたようです。曾良は炎天下、睡眠不足(プラス二日酔い)での山中行の結果、持参した水筒はとうに空になり強烈に喉が渇きました。もしかしてそれは脱水症状(熱中症の初期症状)とも言え、無理をすると重篤な状況に陥る危険があったのかもしれません。
この時、家々を訪ねて冷まし湯を所望したが断られた、と曾良は嘆きますが芭蕉はコメントしていません。ここがポイントです。


   そもそも、この地域では冷まし湯習慣がありませんでした。井戸水は澄み、清水沢をはじめ各沢の水も清く、太郎坊清水は旅人に開放されていました。芭蕉と曾良は、それでも敢えて生水を避けて冷まし湯を望んだがため断られたのだと思います。
「喉が渇いた?いがす・ナンボでも飲まいん・・何す?さ湯す?すったらものねがす」
「喉が渇いた?いがす・ナンボでも飲まいん・・何す?さ湯す?おだずなっちゃや」
と何軒も繰り返していた所に救世主が現れました。登米伊達家譜代家臣の伊東家家老の今野家ゆかりの侍と後に分析される根古の今野源太左衛門です。登米城下から広渕を回り深谷矢本新田まで戻った辺りで「さ湯を・・さ湯を・・」とさまよっている二人に出会いました。哀れに思い、冷まし湯を常備していると確信する屋敷(おそらく矢本重層門屋敷)まで同行し譲ってあげました。
さらに、「今のお二人の様子では登米まで歩くのはとても無理だから、今日は石巻の四平の所に行くがよろしい。」と言いました。で、この時初めて目的地が石巻に変わったと考えるのが妥当です。(宿可借之由と記していますが、四平の所は宿屋で無く医院だった可能性もあるのではないでしょうか。)


 四平宅に到着し休んでいると一雨振り、街の熱気が冷めたので日和山に登りました。すると夕餉の支度が始まっていたのでしょう、見渡す家々から釜戸の煙が一斉に立ち登っているのを見て芭蕉は思わぬ賑わいに驚きます。枕詞の名所もそこそこ散見する事ができ、回り道する事になった不満は少し和らぎました。が、夜に本編をまとめているとふつふつと・・・
「体力無しの同行者の不摂生のお陰で一日無駄にした~~」
と多少不機嫌な所が文章に滲み出ました。すると同行者も日記に
「次は馬!馬さえあれば問題無かった。自分だけのせいでない~~」と返し、「でも本当に今野さんには助けられた・・。」と書き残しました。


 以上が東松島・石巻編の実相であると確信します。



平成30年4月吉日 マロン爺 



参考文献
『おくのほそ道』をたずねて  金澤規雄 著 宝文堂
芭蕉 おくのほそ道      萩原恭男 著 岩波文庫
矢本町史  2
仙台藩道中物語        高倉 淳 著 今野印刷㈱

しろかげ参上~

青影さんと同世代の頃、赤影さんの活躍に胸躍らせましたが、いつのまにか白影さんそっくりになりました。(妻には白ハゲさんと呼ばれていますが・・、)仮面の忍者・赤影、怪獣王子、キャプテンウルトラ、マイティージャック・・(朝ドラにマグマ大使が出ていたし・・)アニメだけでなく実写版のドラマも力作揃いで幸せなテレビ時代を過ごしました。一方で、日中は日が暮れるまで遊びほうけ「三丁目の夕日・地方の漁港都市バージョン」を満喫しました。昭和40年代、大人達がひたすら仕事に打ち込み子供達にかまっていられなかった時代でしたので、自由に遊んでいました。魚市場に係留している船を何艘も渡って、自作の竹の釣り竿で釣りをしたり・・、灯台の先で釣りに夢中になっていたら満潮になって帰り道が水没していたり・・、日々スリル&アドベンチャーでした。


市内各地に青春の想い出を残して旅立つ時期を迎えた時、大変な事が明らかになりました。あらゆる乗り物に乗れないのでした。特に仙石線がダメで乗車率が60%を超えるあたりから「不安の連鎖拡大症候群(本人命名)」に陥り、途中の駅で転げるように下車しました。電車、バス、車、船、いわゆる公共の交通手段という物に乗れず、、徒歩、自転車、バイク(車はまだ持てる状況でなかった。)だけが移動手段ですが、そういう原人は都会に居られません。結局、自宅から通える範囲の地元企業に就職し、今に至ります。会社の営業車やマイカーを運転するようになると少しずつ慣れてきて、古川経由でなら新幹線で東京ディズニーRに家族で出かけられるようにもなりました。が、今でもジャズフェス等のイベントに車で遊びに行った際、移動のため地下鉄に乗る時など一瞬不安になります。


そんな私ですが、どうしても行きたいという熱望が拒絶感を上回り絶体絶命の覚悟をして飛行機に乗ったことがあります。一度目は26年前、中国・北京に行き二度目は昨年末ピーチで奈良・大阪に行ってきました。奈良・甘樫丘周辺は車中泊の強行軍で一度トライしたものの、あまりの長距離運転等で血圧が不安で、自分だけでなく他人を巻き込む事故を起こしては申し訳無いと思い再チャレンジを断念し、鉄路で行く計画と予算を画策していました。そんな時、妻が「ピーチなら3980円で行けるよ・・」と教えてくれました。「飛行機??あり得ないし・・」と一蹴していましたが、「5000円以下で泊まれる宿もある・」と聞くと、高松塚が・・キトラが・・近つ飛鳥が・・私を呼びさまし・・決死の覚悟で飛行機に載る事にしました。
で、日程の調整をしていく中で、USJ,神戸、京都・・とまるっきり私と別ルートを辿る妻の旅程を見ると、往復のピーチだけ隣席の夫婦旅ってどんだけの距離感??とも思いました。

ねずみが---

今暮らしている建物辺りは、7年前、一時海底になりました。学校校舎が盾になってくれたおかげで激流がそれ、一階部分は流出しましたが建物の形状は残りました。そこを事務所・倉庫としてリフォームしゼロ(というかマイナスだべ)からリスタートし、今、震災復興特需の激流から生還し、緩やかな川岸に漂着しつつあるという状況です。
私達の業界は震災前に戻る=地獄に戻る、という意味ですので、復興!復興!と単純に言えません。まして現場主義(計算オンチ)の私のやり繰りでは結果、車両、工具その他生きるために必要な物をうまく揃えたつもりが、あと5年程返済に専念しなければならなくなりました。残念!
震災の年、4月には、中学校と隣接する小学校の桜は咲きました。本当に最後の力を振り絞って咲いている感じで、日本の桜は日本人を励ます使命を負っているのだろうか、と涙する思いでした。その桜も翌年からは花を咲かせませんでした。海水(塩分)のせいなのか?と考えましたが、他地域では浸水エリアでも普通に咲いている所もあり、もしかしてこの地区特有の水産加工場から流出した重油が原因なのだろうか、と今は思います。また、秋になるとこの地域だけススキが生えてこない事にも気付きました。中秋の名月だっちゃ・・と夕方マロン君とススキを探しに出ましたが、ウロウロしてもまるっきり見つからずあせりました。付近はがれきも山のように残り、廃墟と化した街並みにススキはお似合いなのですが見つかりません。もしかして、、と大門崎歩道橋から階段を登っていくと丁度浸水ラインの上にススキが細々と生えているのを見つけました。
6月末頃になると寒さが一転、猛烈に暑さを感じるようになり、私の先見の銘により蚊取り線香を10箱備蓄しました。が、残念ながら異常に発生したのは蚊では無くハエでした。朝、事務所に降りるためにドアを開けると、上空にホバリングしたハエの大群がまさに雲のように群れ、ぶ~~~~んと羽音が共鳴していたのでした。(7年を経過する今でもその音と、日和大橋の下、山西造船跡地に盛り上げられた瓦礫が自然発火してくすぶった煙に包まれた時の嫌な臭いを思い出すたびブルーに浸る事ができる。)
そしてその夏、寝苦しい暑い夜にサッシを全開しても虫一匹飛び込んで来ない・・・。そうボウフラの生息場所が一掃されたのでした。同じく、アリ、ゴキブリ、ネズミそして野良猫も全滅していました。
翌年から、本当に小さいアリが地面を這いはじめた時には「お帰り~がんばってね~・・」等と励ましていましたが、、7年目に入る今日この頃、ついにネズミが天井裏に侵入しました。
はじめ、カサカサと天井裏で動き回る未知の生命体を特定できませんでした。ゴキブリ、スズメ、ネズミ、カメムシ、シロアリ、スズメばち・・or霊的なもの??ユニットバスの点検口を覗きましたが判明しません。


ホーマックに駆け込み、ゴキブリ捕獲シート、ネズミ捕獲シート、かご型ネズミ捕りを購入して仕掛けました。翌日確認すると、かご型のネズミ捕り器のトビラが閉じているのに獲物が残っていません。という事はかごの網目を潜り抜ける事が可能なゴキブリか??と粘着シートの数を増やしました。すると翌日ひそっとユニットバスの点検口を開け恐る恐るライトを当てると・・・2匹のハツカネズミが粘着シートにベタっと張り付いて捕まっていました。
人間の小指に耳を付けたぐらいのはつかねずみは、私が照らすライトに背を向けて固まっていました。生きているのかな?とライトを細かく振ると、左側のやや小さい方が「怖い・・」というふうに震えました。すると右側の少し大きく見える方が「動いちゃダメ・・」と言ったように見えました。私にはこれってミッキー&ミニー??・・と思えてなりませんでした。開放する事ができるか・・・?ちょっと無理でないかい・・?粘着力がハンパでないので無理に剥がそうとしてしても悲劇的な結果が待っていそうでした。
悩んだ末、人間に殺される恐怖を味わうこと無く、「何か動けなくなっちゃった---お腹すいたね~」状態であの世に行ってもらう事にしました。1週間程経ち、恐る恐る覗いてみると絶命したようでした。笹かまと湿らせたティッシュと捕獲シートをビニール袋に入れて焼却ゴミに混ぜ、いつか火葬されるのを待ってて貰う事にしました。
最後に袋を閉じる前に、「今度はペットとして可愛がられるといいね---」と
覗きましたら、二匹だったはずがよ~く見ると三匹になり、顔を重ね熟睡するように昇天していました。