自分が忘れないために書いている3・11⑴

2011・3/11(金)午前中に渡波で床屋さんの灯油タンクの組み立てと、灯油配管の手直し工事をしました。前々日に大きな地震を経験したばかりだったので、転倒防止の措置は念入りにしました。終了後には、お客さんとA商店さんの前でタンクを軽くバンとたたき「だいじょうぶ!多少の地震では倒れません!自信あっから・・・」と言って現場を離れました。 午後も本当であれば渡波地区での改善工事を予定していましたが、販売店さんが「来週でもかまわないよ・」と言ってくれたので自宅へお昼休に戻りました。途中、渡波中学校では体育館に紅白の幕が張られ、校庭は父兄の車でいっぱいでした。卒業式か・・娘君の卒業式を思い出しウル・・としました。
妻に午後は時間が空いた・と話しましたら、「では出発しようか・」という事になりました。 実は翌日、横浜で姪の結婚式に出席する事になっていました。自分と妻の仕事、仙台の高校の寮にいる娘と合流する都合で出発時間を16:00石巻出発と設定していました。 ところが偶然が重なり妻と娘は家にすでに居り、ムーブ(ダイハツの軽自動車)には愛犬マロン君の車中泊の準備、そして宿泊予定の板橋区の息子宅には予備の布団はないだろうから・・と毛布3枚程度の準備が整っていました。
礼服と買ったばかりのコートを乗せ、平成23年3月11日(金)午後1時30分、53年間暮らした湊から旅立ちました。玄関に鍵をかけた後、もう3月だというのに何故か水道の水抜きをした事を覚えています。
家族が泊まり掛けで出かけるのは、長男君が高校3年の時に青森県の三内丸山遺跡に行った以来と思うので、実に7年ぶりの事でした。 マロン君は一泊でしたら何とか一人でお留守番ができます。ですが水は飲みますが、一切食事しません。例え、大好物のキュウリが皿に盛られていても、もぎたてのトマトがあっても食べません。そして、留守番二日目に入ると、「悪いのは君たちだよ・・」とトイレシートとまるっきり離れた、してもらっては困る所にウンコをしたりします。そんなこんなで今回の二泊三日となる日程も①石巻市内のペットホテル②自宅で留守番③同行して車中泊・・・直前まで悩みましたが、結果


「マロン君とパパは車中泊~~!」


と妻が結論しました。
安達太良SAの1km手前で未曾有の大地の揺さぶりに遭遇しました。


車が荒馬乗りのようにバウンドするので走っていられなくなりました。


パンク?いや違うワサワサ・ワサワサとイヤな音がする・波打っている・走行路が揺れながらよじれて波打っている・街路灯がマッチ棒のように振れている・明らかにら左側(海)から右(山)に大地が波動しうねっている。ハリウッド映画の特撮そのものでした。
「これでもか!!これでもか!!これでもか~!!」妻・娘・マロン君、つまり一番大事な存在がムーブの狭い空間に、今いっしょにいる事を「何か」に感謝する一方で、その「何か」にひどく打たれているように思いました。
長~い揺れが収まりソロソロと走り出しました。ボコンボコン・アスファルトがひび割れ、盛り上がり自動車道はダメージを受けていました。
大津波警報~~???初めて聞く言葉がラジオで流れました。「逃げなくては・・!!早く逃げなくては・・!!!」胸が高鳴りました。では何所に??と見渡しましたら右手に安達太良山がどっしりと鎮座していました、なんぼなんでもここまでは来ないか・・。と、自分を落ち着かせました。
安達太良サービスエリアに到着し、ひと安心しました。
これからどう行動すべきか落ち着いて考えようと思いました。とりあえず、守るべき人間とわんこが車に同乗している偶然に本当に感謝しました。
カーナビのワンセグTVを見れませんでした。動転していたのでエリアの再設定がうまくできなかったのだと今は思います。
ラジオは安達太良(福島)エリアの情報が多く宮城の事を知る事ができず歯がゆい思いをしました。 携帯電話(AU)・安達太良SAの非常時公衆電話も繋がりませんでした。が、娘のPHSは繋がりました。ある男の子は「今、どこ?」「塀の上・津波が上がってきた・」「大丈夫?」「何とか・・」・・・切れました。その後、ず~っと繋がらない彼を「あいつは死んだ・・」とふさいでいましたが、さすが若者は塀ずたいに2F建ての屋根まで上がる事ができ母親はダメでしたが一人(妹と二人?)難を逃れたのでした。
停電していましたが、水を流せるトイレがあるだけでもありがたい、この安達太良SAで夜明けを待ち、往くべきか戻るべきか決めようと妻・娘と話しました。SAには20台くらいの車がいましたが同じように夜明けを待とう・・という雰囲気でした。我が家には犬用に準備した水や娘用のおやつがありましたが、何人かが自動販売機が機能しない事にいらだつ雰囲気を感じましたので、SAのスタッフに
「モノをくれ・・と言ってるんじゃないんだ、売ってくれと言ってるんだ、停電したから仕事は終わりです・・というのは、この状況ではいかがなものでしょうか・・」
と談判しましたら、責任者の方が作ってしまった食品と飲み物を小分けにして無償で渡してくれました。他の車の人達にもお知らせして回り、いつか恩返しするつもりですが未だ果たしていません。
ラジオから流れる想像を絶する状況にただ息を飲み「みんな大丈夫か・・がんばれ・・頼むがらがんばれ・・」と祈っていましたら、パトライトを回した車が来て
自動車道を閉鎖するので次のインターから降りろ・・
という・。目が点になり
「すみません・ここで降りても「土地感」が無いので、どうしようも無い・・せめて夜明けまでここにいたいのだが・・」
と言うと「上からの命令でして・・」と若者がバツが悪そうにいうのであきらめて始動しました。
インターを降り4号線が見えた時、絶望感を感じました。上りも下りも大渋滞で動いていない・・。この時から、我が家の『東日本大震災』がラジオのニュースでなく、現実の『苦難』になりました。


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怒!この夜、自動車道だけで無く鉄道も国民を混乱の渦に放り出したというではないか! 「 JAPANを名乗るな!会社名から「J」をはくだつせよ!といいたい・」
当時の石原都知事も激怒したと聞きますが、3・11は自然災害でなく某国からのミサイル攻撃だったと仮定してもおかしくないと思う。当時のなんちゃって政府の罪は重いと感じているので、安住淳以外の民主党は未だに受け入れがたい。
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ティッシュが乗ってきても平常心を保つ修行中のマロン君